先日の酒席にて(詳細はあやふやなのですが、大筋は変わりません)
Dr.Yさん「あなたは日本人だと思いますか、思いませんか?」
私 「・・・・」
Dr.Yさん「考えた時点で、何かしらの疑問を抱いています」
Dr.Yさん「そのために、それらしい理由を探して話しているだけです」
という話。
酒を飲んでいたこともあり、「ん…」と考えさせられ
ぱっと、西銘順治元知事の「ヤマトンチュ(日本人)になりたくて、なりきれない心であろう」という言葉が思い出された。
が、今朝、改めて考えると、「思うか、思わないか」に詰まってしまったのは、
僕は産まれた時から日本復帰も済んでいたので
元から「日本人」なのだよな、だからこそ考えたことがなかったのではないか。
琉球という国・地域にルーツは持つけれども、「何人?」と聞かれたら「沖縄人」とは言わないだろうし。
などと寝不足の朝から考えさせられております。
もう一つの話題
個(パーソナル)と集合(マス)を混同して語ってはいけない。
たとえば、医者(Dr.Yさんはお医者さん)はエビデンス(証拠)を重要視する。
Aさん、Bさんと同じ病気である。
この病気にはある処方が効果があると言われている。
Aさんには効くが、Bさんには効かない。
なのでBさんには全く意外な治療をすると、その病気が完治した。
しかし、Bさん以外にはほとんど効かない。
まずはマスの処置をすることが前提とはなってしまうが、「個」の持つ情況は違うのはもちろんのことである。
ということは同じ問題でも処方の仕方は「個」によって違う。
医学も政治も同じように「個」に対応すべきである。
日本>沖縄>名護>辺野古ではない。
一つ一つの全てが「幸福:もしくは不幸でない」という情況を作らねばならない。
A(普天間)という場所とB(辺野古)という場所で、ある事象(事故)が起こる確率は場所が移動することで変わるものではない。
ならば結局、落ちる確率が変わらないのであれば、どっちに置いても一緒だ。
また、事故率を旅客機との対比をする方がいるが、それなら那覇空港を含め都市に近い空港は普天間より先に閉鎖する必要があるのではないか?
だから確率論で話をしてはいけない。
そして、AでやってたことをBで行うことに対して、それが起こった時に影響が大きいか、小さいかということを問題とするのであれば、その影響を受ける「個」について満足をさせなければならない。
なぜなら自分がその「個」であったなら、その影響を甘んじて受けるのだろうか?
政治家に投票をするのは「個」である、だからこそ「個」対して真摯に向かい合うことが必要だということも考える必要がある。
だから「被害の数字の大きさ」だけで話してはいけない。
最大多数の最大幸福ということを考えてしまいがちではあるが、そこに「不幸でない」という選択もある
政治とは論理的な部分だけで解決するのではなく、感情が大きく渦巻くところである。
特に個人の権利を認めている民主主義の中では、全てに「不満を抱かさない」ということは難しいけれども「不幸ではない」というところに持って行くことは権限の発動を含め行うべきではないだろうか。
衣食住を最終的にすべての人が「不幸ではない」ことにするのが政治=会社=生活の役割である。
(もちろん「今」の人も大切です)
という根っこの部分を話してくださったDr.Yさんありがとうございました。
もちろん、いろいろな考えがあって然るべきだとは思いますが。
なんだか難しい話になってしまったけれども根本は「その立場」での関わる範囲の人々の衣食住を満足させることが重要だということ。
私も関わる社員に対してしっかりと満足してもらえるようにせねばな〜