国際通りのこと(先輩の挨拶から)

2月7日にあった那覇市国際通り県庁駅前商店街振興組合(長い…)の新年会にて前理事長の浦崎政克さん(89歳!守礼堂会長 お土産品)のお話(乾杯の挨拶)から書き出しました

※若干、年など修正しましたが。

戦前のメインストリートはこちらではなく現在の辻町や若狭、西町、東町あたり。

戦後この国際通りはできたけど、生活がしやすいとかそんなところに人が集まってくるけど、沖縄は違うんです。

ここしか住めなかった。

米軍からここに住めと指定されてこっちに住んだ、そういうまちの始まり、これは72年前の話。

そのあと国際通りは昭和20年の8月15日戦争が終わっても、沖縄の人は捕虜収容所に入れられていた。

開放されたのは昭和20年の11月、初めに開放されたのは、どんな人か想像つきますか?壺屋の陶工の皆様方なんです(※食事をするための器をつくるためだったと聞いています)130名、建築じゃなくてなぜ陶工なのか?話すと1時間で終わらないので、その次は建築の木工の人、それでまちが始まります。

そして昭和22年、高良一さん、すごいガッツの有る方でした。その方が今の文化てんぶす館にアーニー・パイル国際劇場を立ち上げたんです、昭和22年の後半、私は23年に見にいきましたので。

なぜ国際だけでなく、アーニー・パイルが前につくのか?アーニー・パイルとは従軍記者です。伊江島で戦死なさった人。

高良さんが国際劇場という名前をつければアメリカ軍は許可しないだろうと思ったんです。そのときお触れが有りまして、沖縄の人は50名以上集団で集まってはいけないと、そのために劇場となったらアメリカ軍は許可しないだろうと。アーニー・パイルと名前をつけたら許可するだろうとアーニー・パイル国際劇場としたんです。

これが23年からオープンしているんですが、その国際劇場の「国際」をとって国際通りと名付けたんです。これが昭和28年、(国際)大通りから始まって、2年遅れて(国際)本通りを結成しました。

昭和28年(〜31年)ころというのは那覇市が混乱している時期でありました。

市の政治行政の混乱時期でありました。どういう事かと言うと昭和31年に行政主席比嘉秀平さんがおられましたがお亡くなりになったんです。その時に那覇の市長だった当間重剛さんが行政主席に持って行かれたんです。

そして、那覇市の選挙があった、その時に当選したのが瀬長亀次郎さん。米軍はそれを嫌って那覇市の資金を凍結したんです。那覇市が運営できなくなった、それで那覇市議会が瀬長亀次郎市長の不信任案を出したんです、そして可決された。

市長は1年足らずで那覇市長を追われた。その後に選挙があって兼次佐一さんが当選した。そんな混乱の時に国際通りは大通りを結成し、昭和位31〜2年に国際本通りと言う通りを、今の県庁駅前をやったんです。

そういうところを見ますと戦後はものすごくみんなガッツがあったんですね。戦争で、私も戦争に参加した人間ですので、戦争で生き残った、平和というものを噛み締めながら商売に精を出したのが今の国際通りなんです。

戦前から通りはあったんですよ、牧志街道と言って、五間ですから約9mですが、まっすぐな道が、県庁は戦前からありましたから、安里三叉路まで。それにそって今の国際通りができた。

何度か道路を作り変えまして、今の国際通りができあがりました。今の街路整備が八重山ヤシを植えて、幅員が18m車道が8.5m歩道が4.75mに広げたんです。平成7年、8年でしたかのころ、当時大田(昌秀)さんが知事でした。

通り会役員みんな揃って大田さんのところに交渉に行ったんです、それまでは電線がぶら下がってました。それを電線をどうにか地下に入れてほしい、台風のたびに停電して商売ができないという苦しい時期があったんです。それを大田さんにお願いしに行ったんです。それを動いてくれたのが総合事務局の技官がいたんですが、この人ががんばってくれたんです。

総合事務局の中に25億の地中化事業が入ったんです。その翌年だったか皆さん方の記憶にあるかと思いますが、平成10年に大型店舗の規制が無くなりました。それで郊外に大型店ができて中心市街地がシャッター通りになった。という新聞が出たのはそのあたりです。しかし、国際通りはシャッターが降りなかったんです。1.6Kmの店は。全国にシャッター通りができても国際通りはできなかったんです。

それほど沖縄の人たちはガッツがあったんです。そういうところから立ち上がった国際通りです。そんなところで商売をなさっておられますけど、どうか昔の人たちのガッツもアタマに置きながら頑張って欲しいと思います。ウチの通りは国際本通りという名前でしたけれども、平成15年にモノレールが走りだした。そのために県庁駅前商店街にしようとということで、現在の駅前商店街と名前を変えたわけです。

戦後の話をしますと、1時間で終わりません。このように長々とお話しましたけど、歴史を持つ県都那覇市のメインストリートである国際通りです。そこでの商売をがんばって下さい。いろいろ時代の流れは変わりますけど。観光客900万人余り、しかし売上は6000億、バランスが取れない、人は来てます。商売人のアタマを働かせながら商売がんばりましょう!

という挨拶…僕らはまだまだ知らなきゃいけないですね。

しかし、浦崎会長は89歳!iPadを駆使してFacebookにも投稿するし、ちょっと前まではラジオのパーソナリティもしてた…ガッツあるぜ。