首里あの町この人 【第4回】こぼれ話
事務局わたなべの首里人リレーインタビュー
首里の魅力は人にあり、ここから沖縄の未来が見えてくる。
今回は汀良町にお住いの
仲村 勇 さん(85)にインタビューさせていただきました。
よしとよ新聞の紙面ではご紹介しきれなかったお話をご紹介いたします。
赤田町にお生まれになった、仲村さんは首里城にあった第一国民学校へ入学されました。しかし、小学1年生の時に戦禍が拡大。首里にも艦砲射撃があり、弁ヶ嶽の石橋の下に隠れていたそうです。弁ヶ嶽から流れる水はきれいで、飲用にも使えたし、なにより蚊がいなかったそうです。しかしそこも危険で今帰仁への非難が決まったそうですが、輸送トラックに乗り遅れ、5日かけて歩いて、今帰仁まで非難されたそうです。
今帰仁での生活は厳しく、配給は小麦粉だけで、ヒラヤーチーと野菜もないので、チイパッパ(つわぶき)で飢えをしのいだそうです。
さらに防空壕では、男子ということで、当時小学2年生ではありましたが、竹やりを持たされ、入り口で見張りをさせられたそうです。
3年生からは、石川の宮森小学校へ移られたそうです。そちらでは配給もなく、ビーチで遊ぶ米兵から片言の英語で、お菓子をもらったり、今でもお達者ですが、当時から運動が得意で体も小さいので、米軍基地の倉庫から食料を取っていた。いわゆる戦果アギヤーをやっていたそうです。もちろん一度も捕まったことはなかったそうです。女性は襲われる危険があったので母親も働きに出られなかったと、お話しされていました。
6年生の時に首里に戻られたそうですが、焼け野原で日本軍の戦車が全部ひっくり返って使えないようにしてあったそうです。台湾軍がその戦車の後片付けをしてくれたそうです。
戦場後は、子供たちの遊び場で、弾丸は火薬を抜いて、磨きペンダントにしていたそうです。中にはケガをする子もいたそうです。
ご苦労された事は容易に想像できますが、幼少期の楽しい思い出ということもあり、明るく楽しくお話しされている姿が、印象的でした。厳しい状況だからこそ人は強くなれるものなのでしょう。
後半は、趣味のお話をお伺いしました。58歳の時、縁あって「日本ウォーキング協会」へ入会されたそうです。こちらのイベントは日本各地を二日間60キロ~80キロずつに分けて、南は沖縄、北は北海道まで歩くというものだそうですが、お話を聞くとトレッキングや登山に近い印象でした。紙面にも書きましたが、青木ヶ原樹海で迷子になり、たまたま通りかかった地元の方のおかげで、ほかのメンバーと合流できた。北海道網走では、ヒグマの生息地する湿地帯を歩いたりと、命がけのもので、想像していたウォーキングとは少し違いましたが、数々のエピソードを、今も毎朝6時半に開催している「首里健やか会」のラジオ体操で披露して、メンバーに楽しんでいただいているそうです。
ウォーキング協会からは30回踏破記念のメダルを授与され、ラジオ体操ではラジオ体操優良団体として表彰を受けたそうです。
いつも明るい仲村さん終わりに首里についてお話伺いました。
首里は年長者を敬い、年がひとつでも上の人には絶対逆らわない、だから争いが生まれない。そう、親、先輩から大切なものを受け継いできたので、これからも次の世代にその大切なものを受け継いでほしい。
そうお話頂戴しました。これからもお元気で、地域の皆さんを明るくしていただきたいと若輩ながら感じました。
人に歴史あり、これからも地域にお住いのいろいろな方にインタビューしていきたいと思います。