国ガチャはある?〜民主主義と排他主義、リベラリズムの限界〜

私たちは「どの国に生まれるか」で、人生のスタートラインが大きく違ってしまう――そんな現実を表す言葉として「国ガチャ」という表現が広がっています。生まれた国によって自由や教育、医療、さらには政治参加のチャンスまでが左右されるこの構造は、じつは民主主義の根っこにも深く関わっています。「国ガチャ」という視点から眺めると、外国人参政権やリベラリズム(自由主義)が抱える“限界”がよりはっきりと見えてくるのです。
国ガチャとは? 「国籍」は人生の初期設定
「国ガチャ」という言葉は、ゲームのガチャのように“どの国に生まれるかは運次第”という現実を象徴的に言い表しています。
たとえば、出生地が日本であれば、教育や医療、社会保障、パスポートの強さなど、人生における多くの選択肢が最初から与えられます。一方、紛争や貧困の深刻な国に生まれれば、どれほど努力しても到達できる未来が大きく制限されてしまうこともあるでしょう。
つまり、国籍とは単なる行政上の「登録情報」ではなく、人生の可能性や社会参加の幅を決定づける“初期設定”そのものなのです。
そして、この「国ガチャ」は、民主主義における「誰が政治に参加できるのか」という線引きとも深く結びついています。「国民」という枠組みを決めること自体が、国ガチャの結果をさらに固定化する仕組みになっているとも言えるのです。
民主主義・排除・国ガチャはつながっている
民主主義は「人民による政治」を意味しますが、ここで言う「人民」とは、基本的にはその国の「国民」を指します。実は、民主主義という仕組み自体が、「内」と「外」を分ける線引きを前提にしているのです。
この構造を国ガチャの視点から見ると、次のような流れになります。
• 生まれによって、どの国の国民になるかが決まる(国ガチャ)
• その国の制度の中で、「主権者」として政治に参加できるかどうかが決まる
• それが、「排除」や「外部者」の扱いを正当化する根拠となる
こうして見ると、民主主義という制度そのものが、実は“国ガチャの結果”と深く結びつき、それによって包摂と排除の構造がつくられていることが分かります。
外国人参政権の議論は「国ガチャの不平等」を映す鏡
外国人参政権の議論は、この問題を最も象徴的に映し出します。
たとえば、日本で生まれ育ち、日本語を話し、納税もしている外国籍の人がいたとしましょう。(特に、歴史的な経緯から日本で暮らしている在日韓国籍・北朝鮮籍の人々については、長年社会の一員として生活していてもなお、政治参加の権利を持てない状況が続いています。)その人は、政治参加の権利を持てないという状況に置かれています。
「国籍で権利が決まってしまうのは不公平だ」という主張は理解できますし、人道的な観点からも共感を呼ぶでしょう。
しかし一方で、民主主義には「意思決定に参加したなら、その結果にも責任を負うべきだ」という原則があります。日本で産まれ育ち、その後も日本で暮らしていく方もいれば、参政権を得られる最低限の期間だけ滞在して選挙権を行使し、その後帰国してしまう人も出てくるかもしれません。そんな時には決定と責任の一致が崩れてしまう可能性も否定できません。
また、意図的な人口移動は、制度の隙を突いて政治や選挙に影響を与える手段として世界各地で用いられてきました。接戦区への短期的な転居や住民登録による「票の輸入」は欧米でも問題となり、香港では本土からの移住で投票結果が操作された例もあります。国家レベルでも、ロシアのクリミア編入や中国の新疆・チベット政策のように、人口構成を変えることで支配を強める戦略がとられています。移民や難民が外交カードとして使われた事例もあり、「人の移動」は単なる人口現象ではなく「権力の移動」でもあるのです。将来的に日本で外国人参政権が拡大すれば、同様のリスクが現実になる可能性があり、制度設計の段階から慎重な検討が必要です。
だからこそ、単に「参政権を与える・与えない」という二元論ではなく、「どこまでの帰属意識と責任を持ってその社会に関わるか」という制度設計が重要です。居住年数や永住資格、帰化制度の柔軟な運用などを通じて、国ガチャによる不平等と民主主義の原理を両立させる工夫が求められます。
リベラリズムの理想と、乗り越えられない“壁”
リベラルな考え方は、国籍や国境を超えた人権や包摂、多様性を重視します。しかし「国ガチャ」という現実を見落としたままだと、理想が制度を空中分解させてしまう危険性があります。
たとえば、権利の基準を「生まれた国」ではなく「住んでいる場所」や「人間であること」そのものに置けば、国家という枠組みそのものが揺らぎかねません。参政権を無制限に広げれば、「責任」と「決定」の関係が崩れ、民主主義の土台が不安定になる可能性もあります。
つまり、リベラリズムが本当に社会を前進させるためには、国ガチャという“スタート地点の格差”を踏まえた上で、制度との折り合いをつける現実的な視点が欠かせないのです。
偶然(国ガチャ)を前提にした制度をどうつくるか
「国ガチャ」という言葉は、私たちが普段あまり意識しない“生まれの不平等”を浮き彫りにします。
民主主義は「人民による統治」であるがゆえに線を引かなければならず、その線は同時に排除を生み出します。そして外国人参政権の議論は、まさにこの線の引き方そのものが問われているという事実を私たちに突きつけます。
一方で、リベラル派の中には「人権は国籍を超える」「国境は時代遅れ」「人は皆、平等である」といった考え方を持つ人も少なくありません。しかし、国ガチャの現実を無視したままでは、制度としての持続性を確保することは難しいでしょう。
大切なのは、「責任」と「帰属」、「主権」と「自律」といった原則を守りつつ、偶然の出発点に左右されない仕組みをどうつくるかを考えることです。
生まれによって人生が決まってしまう社会を超えていくこと――それは決して簡単な道ではありませんが、21世紀の民主主義が向き合うべき、避けて通れないテーマではないでしょうか。
参考文献・URL
• 酒音さかね「“国ガチャ”という現実――生まれる国が人生を左右する」笹川平和財団IINA
https://www.spf.org/iina/articles/sakane_01.html
• 岡山大学法学会「欧米における定住外国人参政権の現状と今後の課題」
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/4/48724/20160528090708601221/olj_055_2_550_489.pdf
• 安保克也「日本国憲法と外国人の地方参政権」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/houseiken/8/0/8_KJ00003600923/_pdf
• 井上一之「地方自治の視点から見た『外国人地方参政権』」
https://cgu.repo.nii.ac.jp/record/202/files/sh12_1_3.pdf
