現在、大阪・関西万博2025が開催され、世界中から注目を集めていますが、今回はちょうど私の生まれた50年前に沖縄で行われた「沖縄国際海洋博覧会」についてです。
1975年7月から翌年1月まで開催された沖縄海洋博は、本土復帰を記念し、日本が国際社会に沖縄の存在をアピールする国家的事業でした。テーマは「海―その望ましい未来」。当時、海洋資源開発や環境保護が国際的な課題となりつつあり、未来の海洋利用を考えることを目的としました。アメリカ、イギリス、ソ連など世界36か国(日本を含む)3国際機関が参加、期間中に約350万人(目標450万人)が来場しました。
シンボルマーク EXPO ’75, vectorized by Mifons79 – https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Expo75_Logo.jpg, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=66774098による
当初、日本政府はこの博覧会を、1970年大阪万博に続く本格的な「登録博(一般万博)」として計画していました。政府内では通産省が中心となり、沖縄復帰の象徴として盛大な国際博覧会を成功させるべく各省庁が動いていました。
当時の計画では、沖縄北部一帯を開発して超大型国際空港を建設し、沖縄をアジアの玄関口とする構想や、大規模リゾート施設群(超高層ホテル、国際展示場)を整備する案など、壮大なビジョンが検討されました。
ところが、1973年に発生した第一次オイルショックにより世界経済が急速に冷え込み、日本も財政危機に直面します。沖縄自体もインフラ整備が追い付かず、一般博に必要な規模の施設を用意するのは困難と判断されました。その結果、テーマを「海洋」に絞り、規模を縮小した「特別博(Specialized Expo)」としてBIE(博覧会国際事務局)に再申請されることとなりました。
沖縄県側は、当初の国家的大イベント構想に大きな期待を寄せていただけに、縮小決定には強い失望感がありました。一方で、県としては海洋博をきっかけにインフラ整備を一気に進め、観光立県への道筋をつける意図があったため、 「規模縮小でも実現を最優先する」方向に舵を切らざるを得ませんでした。
実際、海洋博の開催によって、那覇市と名護市を結ぶ国道58号線の改修、電力網・水道網の整備、さらにはホテルなど観光インフラの拡充が進みました。博覧会に合わせて建設された「海洋博記念水族館」(後の沖縄美ら海水族館の前身)も話題となり、サンゴ礁の再現水槽など、沖縄独自の海洋生態系の紹介に力が入れられました。会場跡地は「海洋博公園」として整備され、現在では年間数百万人が訪れる観光拠点となっています。
このイラストは海洋博のマスコットキャラ「オキちゃん」
しかし、華々しい博覧会の幕引きとともに、沖縄経済は深刻な低迷に直面します。これが、いわゆる「海洋博ショック(不況)」です。博覧会期間中は建設特需や観光需要によって一時的に景気が加熱しましたが、閉幕後は需要が急減。
博覧会に合わせて建設されたホテルや施設は稼働率が低迷し、企業倒産が相次ぎました。沖縄県内の失業率は急上昇し、経済基盤の脆弱さが露呈しました。特に、海洋博を見越して大量に供給された観光施設が需要を大きく上回ったことで、「過剰投資」のツケを払うことになったのです。この海洋博不況と言われるものは、沖縄に「自立型経済の必要性」を強く認識させる契機となりました。
県はその後、農業・水産業の振興や、国際物流拠点の整備(那覇空港拡張など)を進めると同時に、より持続可能な観光開発を模索するようになり、沖縄振興開発計画の見直しを進めるきっかけとなりました。
つまり、沖縄海洋博は「縮小開催」「閉幕後の不況」という苦い経験を伴ったものの、沖縄の社会インフラ整備と、長期的な経済振興政策の出発点となった重要な歴史的イベントだったと言えます。
同様に、大阪万博も今後の大阪だけではなく、日本の経済振興に大きく寄与するものだと思います。期間中にぜひ見学に伺いたいと思います。