沖縄社会におけるロジックの揺らぎと選択的正義
率では見ない米軍犯罪、率を求める外国人犯罪報道について考えてみた。
沖縄で「犯罪」という言葉が出るとき、それは単なる統計上の事実ではなく、政治的・歴史的、そして感情的な含意をもって語られることが多いと感じる。
たとえば、在沖米軍に関連する事件や事故が起きるたびに、県内メディアや反基地活動家の中からは「米軍がいるから沖縄は危険だ」「一人でも事件を起こせば駐留の正当性は問われる」といった声があがる。そこでは、「犯罪率」や「比率」などの精緻な議論よりも、存在そのものが引き起こす構造的な不条理として、米軍の問題が語られている。
しかし今回、選挙演説のなかで語られた外国人犯罪に関する発言については、報道側から「ファクトチェック」という形で、まったく異なる理屈が持ち出された。
参政党の吉川里奈衆議院議員が那覇市で「外国人犯罪が増えている」と発言した際、地元紙は「在留外国人の増加率を無視しており、ミスリードだ」と厳しく批判した。
「外国人の重要犯罪増」はミスリード 「不起訴率が右肩上がり」は誤り 参政党・吉川里奈衆院議員の街頭演説【ファクトチェック】(沖縄タイムス2025年7月10日 8:00)
2024年末の在留外国人は376万8977人。14年末からの10年間で78%増えた(法務省統計 )。訪日外国人客数に至っては24年に3687万148人と、10年間で175%増えている(政府観光局統計 )。
吉川氏が言及した外国人の重要犯罪(殺人、強盗、放火、不同意性交、略取、誘拐、人身売買、不同意わいせつ)検挙は24年に754件と、10年間で75%増えている(警察庁統計)。在留外国人の増加率とほぼ等しく、外国人が犯罪を起こしやすいとは読み取れない。この間、日本人の人口は4%減っている(総務省統計)のに、検挙は24年に1万1624件と32%増えている(警察庁統計)。
よって「外国人の重要犯罪増」は「ミスリード」と判定した。NPO「ファクトチェック・イニシアティブ」(FIJ)の基準で「一見事実と異なることは言っていないが、釣り見出しや重要な事実の欠落などにより、誤解の余地が大きい」言説を指す。
外国人による交通事故は24年に7286件と10年間で6%増。ただ、在留外国人の増加率78%に比べると増え方は少ない。日本人による事故は26万1418件で51%減と、10年間でほぼ半減している(警察庁統計)。全体の事故件数も減っていて、吉川氏の発言はこの部分で事実だが、「外国人の交通事故増」という言説は母数増に触れておらず「ミスリード」となる。
「不起訴率」はどうか。最新の23年の法務省統計で外国人は58・9%。13年からの10年間では1・1ポイントの微増だが、小幅に上下を続けており、吉川氏が発言した「外国人の不起訴率が右肩上がり」は「誤り」だった。不起訴率は日本人を含めた全体の方が68・0%と高く、同じ期間に0・8ポイント上がっていた(法務省統計)上記の沖縄タイムス記事より引用
確かに統計上、在留外国人の数はこの10年で78%増加しており、犯罪件数の増加もそれに比例しているため、相対的な犯罪“率”は横ばいだといえる。報道は、「全体に占める割合で見なければ、偏見を助長する」と主張した。
この対応の違いに、私は強い違和感を覚えた。
保守系の言論者が米軍の事件について「率」や「母数」での冷静な議論をしようとしても、それは軽視され、「米軍の存在そのものが悪」とされてしまう。一方で、在留外国人に関しては、「感情的になるな、冷静に率で見よ」と求められている。
どちらも“外から来た存在”であり、どちらも一定数の事件が起きているという現実があるにもかかわらず、議論の物差しが使い分けられているように感じてしまう。
もちろん、在沖米軍は戦後から続く占領・基地負担の歴史を背負い、日米地位協定という制度的特権もある。そのため、「一件の事件でも許せない」という沖縄の感情が生まれる背景には、一定の理解がある。
だが、そうであるならば、外国人労働者の増加や共生社会への不安から出る声に対しても、同様に「歴史的・構造的文脈」への配慮が求められるべきではないだろうか。
むしろ、米軍犯罪と外国人犯罪の扱いが、政治的立場によって選択的に報じられている現状こそ、沖縄における「正義の二重基準」を象徴しているのではないか。
感情による糾弾と、数値による否定。こうした矛盾したスタンスこそが、報道の信頼を損なう要因である。
冷静に言えば、米軍兵士が事件を起こしたからといって、すべての兵士が危険だとは言えない。実際、在日米軍の人口に占める犯罪率は、日本人より低い年すらある。一方、外国人による交通事故や重要犯罪の件数が増えているとはいえ、在留外国人の急増という背景を踏まえれば、「率」としての増加は確認されない。
つまり、「一部の例外をもって、集団全体を論じる」のは、どちらのケースでも公平ではない。
むしろ、「その人たちがいなければ事件は起こらない」と言うのであれば、それは”排除”という思想の告白、に他ならないのではないだろうか。
米軍問題が「象徴的な政治問題」として扱われることには私も一定の理解をする。
だが、そのことが他の少数者への見方や議論の仕方に影響し、矛盾した論理を無自覚に使い分ける土壌を生んでいるのではないかとも感じている。
市民の安全や共生を本気で考えるなら、私たちは「誰が言ったか」「誰に向けてか」ではなく、「どの論理に立脚しているか」を基準にすべきだ。
論理の整合性こそが、多様化する沖縄社会における信頼の基盤である。
それを失えば、私たちは「反対運動」と「排外主義」の境界を見失ってしまう。
(新垣淑豊|2025年7月10日)
