連立解消という地殻変動:日本政治と沖縄の視点から
昨日(令和7年10月10日)、26年という長期にわたって続いてきた自民党と公明党による連立政権がついに終焉を迎えるとの報道が流れました。これは、単なる政党の関係変更ではなく、日本政治全体にとっての大きな「地殻変動」と言っても過言ではありません。
自民党と公明党の連立は、1999年10月に正式に発足しました。
きっかけは、当時の小渕恵三内閣が掲げた「安定した政権運営」の実現でした。
参議院での自民党単独過半数割れを補うため、まず自由党と連立を組み(自自連立)、続いて公明党が加わり「自自公連立」となったのが始まりです。
その後、自由党離脱後に保守党が参加して「自公保連立」を経て、現在の自公体制が形づくられました。
特に私にとっては、沖縄に根付いた選挙協力の歴史が、今回の変化によってどう揺さぶられるかが気になります。
沖縄で自民・公明の選挙協力が本格化したのは、2000年の衆議院沖縄1区選挙におけるいわゆる「コスタリカ方式」の採用がきっかけでした。小選挙区は公明党、比例九州は自民党という、両党の「譲り合い」としての協力モデルが実現したのです。この方式は、日本の憲政史において、他党が互いに選挙区を譲り合うスタイルとして画期的なものでした。
それ以前にも、共闘のきっかけとなったのが、1998年4月の沖縄市長選です。公明党は当時革新系の現職・新川秀清氏を支持する与党から離脱し、自民などと共に新人の仲宗根正和氏を推薦。結果、仲宗根氏が大勝しました。この頃から革新・中道路線からの変化が見受けられます。
さらに同年11月の沖縄県知事選では、現職の大田昌秀氏への支持を見直し、「大田氏を基軸とする自主投票」という方針を採用し、この判断が、自民党、県経済界などが推した新人・稲嶺恵一氏の当選を後押しする形となり、稲嶺県政の誕生へとつながりました。
当時、自民党県議だった故・翁長雄志氏が、公明党との調整の中心的役割を担ったことでも知られています。
こうした経緯から、沖縄では中央よりも早く「自公協力の実験」が行われ、以後の県内政治における選挙戦略の礎を築いたのです。
以来、自公の連携は沖縄にも深く浸透し、国政選挙・地方選挙の協力だけではなく、政策調整や議会運営の面でも相互協力が続いてきました。公明党の組織力と自民党の地盤力が互いに補い合い、選挙戦略的にも安定をもたらす構図が、25年にわたって継続してきたのです。
しかし、今回の公明党離脱は、そうした長年の枠組みを根本から揺るがす選択となります。党首会談では、「政治とカネ」の問題が決定的な溝として浮上しました。派閥裏金事件や企業・団体献金の扱いをめぐって、公明党側は強い改革要請を掲げてきましたが、自民党からの回答が「不十分」であるとの判断に至ったと伝えられています。 報道では、公明党は近く行われる首相指名選挙では斉藤氏の名前を書く方針で、国政選挙での自民との協力も白紙とする意向が示されています。
自民党側は、一方的な離脱表明に「残念だ」とコメントしながら、今後の野党との連携には慎重な姿勢を見せています。離脱が確定すれば、自民党は国会運営において公明党の支援なしでは多くの法案や予算成立が難しくなる可能性が出てきます。 
この国政レベルの変化は、地方政治、特に沖縄においても大きな波紋を呼び起こします。
県や市町村レベルで、これまで「与党側」と見なされてきた構図が崩れる可能性があるのです。補助金や交付金、政策協調、議会の与野党構成、さらには選挙協力、これらすべてにおいて再編の対象となるのではないでしょうか。
とは言え、公明党県本部の上原章代表は、報道陣に対して「まずは党本部がどういう背景でその判断を下したかを確認したい」と述べ、沖縄では長年培われた自公の「信頼関係」を重視する姿勢を示しました。自民党県連の島袋大会長も「県内の自公協力には長い歴史と信頼関係がある」とし、「役員や議員の意見も確認しつつ、公明側と協議を重ねていく」意向を表明しています。
つまり、全国の政党関係が変化しても、沖縄では「即断せず議論する」余地を残すとのスタンスが見られます。これは、地域の実情や支持基盤を無視できないという現地での政治の実情を反映したものと言えるでしょう。
ただし、連携解消の報は沖縄政治にとっても警鐘となります。自公の協力が前提となっていた選挙区調整や票の流れが断たれる可能性があり、次の選挙では各党が各々の判断を迫られます。「選挙協力なし」の選挙区も出てくるかもしれません。そうなれば、有権者の選択肢が変わり、地域の利害や課題が個別に争点化しやすくなります。
国政面で言えば、公明党の離脱は、首相指名選挙や今後の法案採決において与党側に大きな制約をもたらします。新たな首相を指名する時点で、自民党が単独で過半数を確保できない状況では、他党との連携や妥協が不可欠となります。今後、自民党は維新、国民民主、あるいは野党との“政策ごとの協調的連携”を模索せざるを得ないでしょう。
この動きはすでに多くの解説でも指摘されており、JBpressでは「自公連立解消、『下駄の雪』がむいた牙、選挙協力は消えたが国民の『保守回帰』に賭ける高市氏の戦略」などという論考も出ています。
実際、この変化は単に与党構成が変わる以上の意味を持ち、制度設計や議院運営の慣行が揺らぎ、政策合意形成や野党との駆け引きの構図が変わる可能性があります。「与党・野党」という二大勢力の枠組みが相対化され、ヨーロッパのように多党間調整型の政治構造へのシフトが加速するかもしれません。
選挙イヤー沖縄、我々の暮らしはどうなるか
私たちの地域にとって、来年が沖縄にとって「選挙イヤー」であることは注目すべきことです。県知事選挙や那覇市長選挙をはじめ、地方議会選挙や市町村長選も相次ぎます。こうした選挙で、自民・公明の選挙協力がどう変化するかは、政策実行力や地域受益に直結します。
もし選挙協力が消えるとすれば、有権者の選択肢が増える半面、票が割れやすくなり、予測不能な競争が生じやすくなります。逆に、地域事情に応じた協調関係や選挙取引が模索されれば、それは新しい形の「与党連携モデル」の実験場となるかもしれません。
例えば、沖縄県政課題である基地問題、観光振興、医療・福祉、交通インフラなどにおいて、政党間の協議力と実行力が試される場面が増えるでしょう。新たな選挙構図の中で、地域が“割を食う”か、“声を反映する場”を拡張できるかは、まさに次の選挙で問われると言えます。
私たち県民にとっても、これからの政治の動きに注目し、声を発することが重要です。政党や議員にただ任せるのではなく、地域課題を軸にした政策提案や対話を求める意識が、これまで以上に求められる時代になるでしょう。
公明党の連立離脱は、26年にわたる協力関係の終わりを意味しますが、同時に新たな始まりの予兆でもあります。日本社会が直面する課題は日々変化しており、それに対応する制度や関係性も、「固定的」ではあってはなりません。
この転換点を通じて、私たちが目指すべきは「党派の枠を超えた政策本位の政治」、「地域課題に真正面から向き合う政治」です。新たな連携関係や議論の舞台が生まれるなら、それは変化を恐れるのではなく、可能性を試すチャンスとして捉えたいものです。
沖縄はこれまでも多くの試練や揺れを経験してきました。その歴史と民意の重みを胸に、次の政治を創る主役として、地域の声を上げ、選挙を通じて変革を後押ししていきたいと思います。
参考リンク・出典
• 「公明が自民との連立離脱、“政治とカネ”で溝埋まらず 26年間の関係解消」 Reuters
https://jp.reuters.com/markets/japan/N3RXJ6BADFJTFFBLTDIVJWO4CU-2025-10-10/
• 「公明の連立離脱 “一方的に” と高市自民総裁、大変残念と胸中」 Reuters
https://jp.reuters.com/markets/japan/ICG4GZASKRKKRLHBZQEO4AMDII-2025-10-10/
• 「公明連立離脱こうみる:過熱感を解消、高市シナリオは不変」 Reuters
https://jp.reuters.com/markets/japan/GSQUN2CMOBNLFCGB7WF7QZLSVE-2025-10-10/
• 「自公連立解消、『下駄の雪』がむいた牙、選挙協力は消えたが …」 JBpress
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/91082?page=2
• 「公明が連立離脱で政界の勢力図激変、高市トレードには‘非常にマイナス’と専門家」 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/911000
• 「公明の連立離脱は誠に残念、政治の不安定化を憂慮=経団連会長」 Reuters
https://jp.reuters.com/markets/japan/NJNBIVA2MFOLZC6XGIWA7ZMXOI-2025-10-10/
