「年金が止まるから延命してくれ」って、本当にそれでいいの?

救急車を呼ぶような高齢者の急変。90歳を超えて寝たきり、すでに意識もなく、心臓も止まっている――そんな状態でも、駆けつけた医療スタッフに対して家族が「できる限りのことをしてください」と言う場面が少なくありません。理由を尋ねると、「年金が止まったら生活に困るから」と答える方がいるのです。

このようなケースは、決して冗談ではなく現実に起きている話です。救急や介護の現場で働く方々の声として、インターネット上にも多数の事例が見受けられます。「本人の命」より「生活のため」に延命を望む、そんな判断がなされていることがあるのです。

もちろん、誰もが「生きたい」と思う限り、生きる権利を持っています。しかし問題は、本人が意思を示すことができない状態にあるにもかかわらず、その人の命に関わる重大な判断が、家族の経済的な事情で決められてしまう現状にあります。

寝たきりで会話もできず、食事も口から取れない。そんな状態の高齢者に、人工呼吸器をつけ、点滴で命をつなぎ続ける――それは本当に「生きている」と言えるのでしょうか。

延命を望む家族の理由として、「年金が止まったら困る」「介護保険が打ち切られると面倒」といった制度上の損得が背景にあることは、決して少なくありません。これは非常に深刻な問題です。命の扱いが、お金の都合によって左右されてしまっているという現実を、私たちは見過ごしてはならないと感じます。

「人生会議(ACP)」という制度もあります。これは、本人・家族・医療介護の関係者があらかじめ最期について話し合っておく取り組みですが、まだ一般には浸透していません。「死を話題にするのは縁起でもない」という日本的な感覚もあり、先延ばしにされることが多いのです。その結果、“その時”が来てから家族が焦って判断を迫られる事態になってしまいます。

さらに、制度そのものにも改善の余地があります。人が亡くなると、年金や介護保険などの給付は原則として翌月から停止されます。すると、「もう1ヶ月延命できれば〇万円分得になる」といった、現実的な損得勘定が家族の中に芽生えてしまうのです。その結果として、「命をつなぐ理由」が、本人の意思ではなく“お金のため”になってしまうことがあります。

そして一度、延命措置として管をつけてしまうと、それを外すことは「殺人」とみなされる恐れがあり、途中で止める選択が極めて難しくなります。始めてしまえば、止められない。その重さを、私たちはもっと意識すべきではないでしょうか。

令和7年7月の参議院議員選挙では、医療費削減などの議論も交わされていましたが、こうした現場の実情、命が制度の隙間に置かれているような状況についても、議論の俎上に載せるべきだと感じます。

延命治療に賛成か反対か、それ自体は人それぞれの価値観によるものであり、どちらが正しいと一概に言うことはできません。けれども、少なくとも「金銭的な理由で命を引き延ばす」状況が放置されてよいとは思いません。

本人の意思を尊重するためにも、リビングウィル(事前指示書)の普及、人生会議の制度的な推進、そして死後も一定期間は年金や補助が継続される仕組みを整備することが求められるのではないでしょうか。

親として、家族として、残される人たちに負担をかけたくないという思いは、誰しもが持っているものだと思います。 誰もが、自分の最期を自分の意思で決められる社会。命が“お金の都合”で左右されない社会。そんな社会を実現するために、私たちはこの現実を直視し、真剣に議論を重ねていく必要があるのではないでしょうか。

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